第1章 彼らはむしろ三人家族のようだ

「先輩、F国へ行きます。新しい医療プロジェクトの開発チームに入れてください」

南坂海乃の声は、ひどく落ち着いていた。

受話器の向こうで、男の声が跳ね上がる。

「本当か!?」

「うん」

短く返すと、相手は一瞬、言葉を失った。

「でもお前……旦那さんと子どもが心配だって、ずっと言ってただろ。行ったら三年だぞ。お前がいなくなったら、あの二人はどうする」

南坂海乃は答えなかった。

視線は、少し離れた場所へ吸い寄せられる。人だかりの中心、ソファに腰を下ろす一組の男女。

黒谷優は、仕立てのいい高級スーツに身を包み、彫刻みたいに整った冷たい顔立ちをしていた。深い眉と目、高い鼻筋。どこを切り取っても隙がない。

――なのに、今だけは違う。

その横顔には、彼らしくない柔らかさが滲んでいた。

「詩乃。誕生日プレゼントだ。つけてやる」

隣の女――佐藤詩乃は丁寧に作り込まれた装いで、白い頬に淡い紅をのせ、照れくさそうにこくりと頷いた。

まるで二人の世界に、他人の入り込む余地などないみたいに。

娘もまた、佐藤詩乃に抱きついたまま、得意げに胸を張る。

「これね、パパといっしょに作ったネックレス! 飾りもね、わたしとパパでちょっとずつ磨いたの。ぜーんぶ手作り! 世界でひとつだけだよ? かわいいでしょ?」

小さな顔を上げる瞳は、褒めてほしくてたまらない、という色。

佐藤詩乃は愛おしそうに、娘の鼻先を指でちょんと撫でた。

「うん。おばちゃんがもらった中で、いちばん素敵なプレゼント」

南坂海乃の目が、つんと痛んだ。

何度も見せつけられてきた光景。それでも胸の奥をえぐる痛みは薄れない。釣り針で心臓を何度も引き裂かれるみたいに、息をするだけで胸が切れる。

夫と娘に会うのは一か月ぶりだった。

少しくらいは――帰ってきた自分を喜んでくれると思っていた。

けれど、当たり前みたいに、誰も気にもしない。

家族なのは、私のはずなのに。

どうして、二人の目には佐藤詩乃しか映らないの。

前もそうだった。

今も、そう。

南坂海乃は視線を切り、電話口へ静かに告げる。

「……あの人たちがどうなろうと、もう私には関係ない」

彼らが佐藤詩乃を選ぶなら、それでいい。

叶えてあげる。

この家も。

もう、いらない。

「ママ、こっち来てよ! なに突っ立ってるの!」

黒谷楓花が小さな手をぶんぶん振った。

南坂海乃は通話を切り、喉の奥に込み上げる苦さを力ずくで押し殺す。疲れと重さを引きずるように輪の中へ向かった。

「誕生日おめでとう、詩乃」

佐藤詩乃が甘く笑う。

「ありがとう、姉さん。祝ってもらえて嬉しい」

黒谷優がちらりと南坂海乃を見た。

それだけで、何事もなかったみたいに目を逸らす。

「戻ったか。座れ」

陌生人に向けるみたいな冷たさ。

さっきまで佐藤詩乃に向けていたのは、あんなに優しくて、気遣いに満ちた顔だったのに。

南坂海乃の喉が詰まった。

それでも娘は容赦しない。

「ママ、今日はおばちゃんの誕生日なのに、なんでそんな顔なの? もっと楽しそうにしてよ」

佐藤詩乃にしがみつき、口を尖らせて言う。

「全然褒めてくれないし、空気も悪くするし。みんな気まずくなるじゃん。ママ、いじわる」

「楓花……」

佐藤詩乃が小さくたしなめる。

「姉さんに、そんな言い方しちゃだめ」

けれど甘やかされて育った楓花は、注意されるほど勢いづいた。

「なんで? おばちゃん、ママっていつもおばちゃんにきついじゃん。なのに、なんで庇うの?」

そして胸を張って言い切る。

「だいじょうぶ! 今日はおばちゃんの誕生日なんだもん。楓花とパパが守ってあげる!」

「おばちゃんのほうが、楓花もパパも好き! おばちゃんが楓花のママだったらいいのに!」

四歳の、あまりに幼い声が、いちばん残酷な言葉を投げつけた。

一本一本が鋭い矢になって、南坂海乃の胸を貫く。痛みで、体の奥がきゅっと痙攣しそうになる。

南坂海乃は反射的に黒谷優を見た。

赤く滲んだ目は、灯りの陰に隠れる。

「楓花、言い過ぎだ」

黒谷優は、それだけ言った。

叱るでもなく、抱きしめるでもなく、話を終わらせるだけ。

――別の形で、肯定したみたいに。

南坂海乃は自嘲気味に笑った。心が冷えて、痛い。

私は、何を期待していたんだろう。

黒谷優が佐藤詩乃を好きだなんて、最初から分かっていたのに。

ざわめきの中、南坂海乃は目の前のグラスを指先でつまみ、口に広がる苦味ごと飲み込んだ。

今回の海外勤務では、十数時間に及ぶ手術をやり切って、難度の高い心臓移植を成功させた。救ったのは、まだ幼い子どもの命。

手術が終わるや否や、すぐに帰国便を取った。

娘に会いたかった。

夫に会いたかった。

でも――この家に、私に会いたい人なんて、誰もいない。

それなのに私は、馬鹿みたいに思い込んでいた。

これは私の功績を祝う会なんだって。

悔しい?

悔しいに決まっている。

けれど私の感情を気にかける人なんていない。

愛して尽くした夫は私を無視し、手塩にかけて育てた娘は私を嫌う。

五年かけて得た成果は、それだけだった。

南坂海乃は、黒谷優と楓花が佐藤詩乃を囲んでバースデーソングを歌う姿を、赤い目で見つめた。

娘は無邪気に笑い、佐藤詩乃にくすぐられて「きゃはは」と笑い転げている。

黒谷優はそれを撮影しながら、甘い眼差しで微笑んでいた。

南坂海乃が一度も見たことのない、柔らかな顔。

――あの三人こそが家族みたいだ。

南坂海乃の口元が小さく震える。

そして、誰にも気づかれないように、その場を離れた。

家に戻ると、広い別荘は暗闇だけが満ちていた。

南坂海乃は寝室へ行き、離婚協議書にサインをした。

それを予約送信のメールで送る。

一週間後、彼女はF国へ向かう。

同じく、その離婚協議書は黒谷優にも届く。

――彼が出発する、その日に。

最後の贈り物だと思えばいい。

南坂海乃は疲れた息を吐く。

重さの中に、わずかな解放感が混じっていた。

あのとき、彼女が意地を張って黒谷優と結婚したのは、ただひとつの理由。

黒谷優が、七年探し続けた兄さんだったからだ。

けれど今は分かる。

この世界で、愛だけじゃどうにもならない。

どれだけ愛しても、意味はない。

必要なのは――互いに愛していること。

それなら、それでいい。

黒谷夫人として五年。

母として四年。

これからは、ようやく自分に戻れる。

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